●社会経済生産性新聞(1999年7月25日付)

当日の紙面へ

明日への決断
キャラバン代表取締役

野口 壽一

情報通信革命に乗る

崩壊瀬戸際の貿易会社を継続

 一九八七年に会社を設立して以来、大きな岐路が二回あった。第一の岐路は九〇年から九一年末にかけて。会社をつくる前はジャーナリズム関係の仕事でアフガニスタンの政府高官と知り合いになり、日本との貿易の窓口のような仕事をしていた。それがきっかけで貿易の会社を設立した。当時、ソ連がアフガニスタンに派兵されていたが、ソ連軍が撤退すれば平和になると期待していた。会社には共感する若い人も集まった。
 しかし、読みは当たらなかった。ソ連軍の撤退後もアフガニスタンとの貿易が予想以上に困難であることが分かってきた。危機打開策として、貿易業務と並行してD T Pシステムを導入し、情報処理事業の展開を図った。ところが社員の合意を得られず、会社は、崩壊の瀬戸際に立たされた。
 「会社は存続させる、意志のあるものだけが残れ」という方針で臨んだ。二十歳代の社員四人は全員退社。パートの女性だけは「こんなに働きやすい会社はない」と残った。翻訳・マニュアル執筆・D T Pを継続し、パートと在宅作業者をアシスタントにして、業務を継続することにした。そのかわり新規拡大営業は停止。「顧客が期待する以上の品質の仕事をして、顧客が顧客を紹介してくれる会社」を目指すことにした。
 辞めていった若い人々とミッションでは一致していたが、従来型の雇用関係の限界を感じた。「自分には労働者雇用型の会社経営は向いていない、個人事業として続けられればそれでよい」と考えるようにした。
 この方針にして、夜遅くまで働く日が続いた。パートの人も、子供に夕食を食べさせた後、また働きに来た。スタッフ数も売上げも順調に伸びたが、このままでは体を壊すと感じた。
 第二の岐路は、九五年秋から九六年初めにかけてだった。パソコンが身近なものになり、それまでのDTP技術だけでは将来が不安になっていた。それとともに、インターネット・ブームが起こり、情報通信革命が始まった。インターネットで何かできないか、研究に没頭するようになった。
 最初はどういうかたちでビジネスにしていいか分からず、まずはホームページの受注作成などから手がけていた。そんなとき、起業家マインドをもった若い技術者やベンチャー支援のベテランと出会った。
 彼らに出会って知ったのは、オープンな関係のなかで、多くの人と協創する喜びや、共通の目的のために活動する人々の生き生きとした姿だった。キャラバンを中心に広がっていくこのネットワークを活用して、従来の雇用関係ではつくりえなかった創造集団を形成できるかもしれない、という予感がしてきた。
 インターネット・ビジネスを検討した結果、インフラ業は大手の仕事であり、手を出すべきではない、そのインフラをどう上手に楽しく使ってもらえるかを事業としたほうがいい、という結論に達した。
 九五年末、米国シカゴにリナックスを使ったサーバーを五十万円で構築した。これでいろいろな実験を始めた。ベンチャー支援のための「 246 コミュニティ 」には急激に多くの起業家や支援ビジネスの専門家らが集まった。現在三百数十人になっている。コンピューターの稼働の少ない土、日曜は、高齢者向けボランティア活動への施設提供を始めた。キャラバンの持っている資産や能力を、何かをやりたい人に使ってもらうことにした。
 ボランティア活動からは収益は上がらないが、会社経営にとって貴重なネットワークが広がることにこそ価値がある。「自分が作ったものを他の人に自由に使ってもらう。そのかわり困っているときは互いに助け合う」というインターネットやUNIXの底流にある考え方が世の中のパラダイムを変えていると思う。
 今年、キャラバンの変身を助けてくれた人たちに出資してもらい資本金を倍にした。今がキャラバンの新しい時代の幕開けであり、社会的責任を感じている。 (談)

(キャラバン=本社・東京都世田谷区上馬、設立・一九八七年一月二十二日、資本金・二千万円、URLは次の通り。http://www.caravan.co.jp/)